基盤研究C 2021–2023「研究概要」

古代哲学史研究への新たな視座─「教導」の体系に関するアウグスティヌスの洞察


基本データ

  • 研究代表者 上村直樹(東京学芸大学教育学部・研究員)
  • 研究期間 2021年度–2023年度
  • 研究分野 思想史
  • 審査区分 一般
  • 研究種目 基盤研究 C
  • 研究機関 東京学芸大学
  • 課題番号  21K00084

研究の目的

本研究は、哲学史家ピエール・アドによるヨーロッパ古代哲学史研究に変革をもたらした「精神の修練」研究(またアドの影響下、生き方を変容する「自己への配慮」の系譜に着目したミシェル・フーコーの古典思想研究)が犯した哲学史的なアナクロニズムを克服するために、その主たる研究対象であった教父アウグスティヌスのテクスト分析に基づき古代の哲学的な営みを捉えるための新たな視座を提起することを試みる。「精神の修練」としての哲学が実践する主体の「生き方」を変容するというアドとフーコーの提唱は、内なる個 という近代的な「自己」概念をテクストに読み込むという方法上の誤謬を犯している。このアナクロニズムを解消することで「生き方」に関する恣意的な解釈を斥け、道徳的な教訓という意味ではない実践的な知恵を求める「生き方」を基礎づける体系について考察する。

本研究は、プラトン以降ヘレニズム哲学諸学派へ継承される一方、新約聖書から教父までの魂の陶冶の系譜に連なる「教導」psychagogy に焦点を合わせる。「教導」とは指導者や友人が言表行為によって魂を導くことである。導かれる者が有する誤った信念を論駁し説得するよりは、真実を知らしめて「魂」を知恵へ導くことを可能にするゆえに、その者の「生き方」を変える術として機能すると見なされてきた。この体系が「精神の修練」を包摂しつつも社会的な紐帯のなかでの実践的な選択を通じた「生き方」を涵養していると仮設したうえで、研究課題の核心をなす学術的「問い」として「「教導」について教父アウグスティヌスが提示した言説とそれを支える論理とは何か」を設定する。

本研究はこうした学術的「問い」に答えるために、次の3つの問題を取り上げる。

  • アドの「精神の修練」研究とフーコーの「自己への配慮」研究の孕む問題性とは何か
  • アウグスティヌスにおける「精神の修練」「自己への配慮」とは何か
  • アウグスティヌスにおける「教導」とは何か
「生き方」に関する従来の研究の方法上の錯誤とその所以を解明し、古代世界の修練と配慮 の系譜を踏まえたうえで、言表行為の体系「教導」の有する意義と可能性を考察する。

本研究において設定した問題: A. アドとフーコーの研究に対する批判的な検証; B. アウグスティヌスにおける「精神の修練」「自己への配慮」分析; C. アウグスティヌスにおける「教導」分析;これらを年度毎に割り当て、テクストと二次文献の精査を逐次推進する。

  1. 問題Aに関して、アドとフーコーの主著を分析することによって、その方法の問題性を明らかにするとともに、彼らの解釈の成果を批判的に検証する。資料調査を実施するとともに計画の工程を見積もることによって、年度末に最初の進捗点検を実施する。
  2. 問題Bに関して、取捨選択したテクストの分析を進める。既発表の成果を学術雑誌に投稿する準備を進めるとともに、新しい成果を踏まえた学会発表に取り組む。また海外研究協力者を招聘する学会セッションを企画する。
  3. 問題Cに関して、取捨選択したテクストの分析を進める。また問題B–Cについて分析した成果を踏まえて、本研究の課題を包括的に考察する。さらに新たに発表した成果も学術雑誌に投稿する準備を進めるとともに、英文冊子体報告書を刊行する。

魂を知恵へ導く「教導」の体系がアウグスティヌスの思想に組み込まれていることを明らかにするとともに、アドとフーコーによる研究における方法上の誤謬を検証することに取り組む。分析対象として、テクスト 1. アウグスティヌス「書簡」集(現存テクスト約300通); テクスト 2. アウグスティヌス「民衆向け説教」集(現存テクスト約600篇)2つのジャンルを扱う。これらが「精神の修練」に繰り返し言及するとともに、導く者と導かれる者の関係性において「教導」についてアウグスティヌスが提示した言説とそれを支える論理を解明するのに最適な分析の対象だからである。問題 A–B–C を3段階の工程で検討する。

研究の背景

本研究は、教父アウグスティヌスの思想を古代哲学の伝統のなかであらためて捉え直すことによって、未開拓の主題──教父思想における「教導」という体系の意義と可能性──を扱うという独自性を有する。また、古代ヨーロッパ史・初期キリスト教研究における研究の成果との架橋に着手し、従来の研究動向の偏りを修正するという独自性を有する。というのも近年の研究動向として注目すべきは、アウグスティヌス研究が精緻なレベルに達したことによって、アウグスティヌスの思想の生成・変容・継承の所以を一層実証的に、1. 古典古代・ヘレニズムの哲学伝統という射程のなかで解明する研究とともに、2. 「アフリカ性」と規定しうる固有の地域性Africannessを踏まえ 2世紀以降の北アフリカ教父思想の展開という射程のなかで解明する研究が現れていることである。ところで、アドの洞察を契機として「再発見」されることになった、哲学を「生き方」の変容をもたらす日常の修練的な営為として捉える哲学観は、古典古代、とりわけヘレニズム期以降のキリスト教の布教もふくめた思想的な運動に連動するゆえに、古代末期の社会的、文化的、宗教的な環境の変動を包括的に検討しようとする思想史研究に強い刺激を与えてきたと評される。したがって、本研究構想を推進し「精神の修練」研究の欠陥を克服するとともに、アウグスティヌスにおける「教導」という体系の意義と可能性を考察することによって(本研究ではアウグスティヌスの「書簡」と「説教」のみを分析の対象とする限界が設けられているとはいえ)、上述1の研究動向と相俟って、a. 古典古代・ヘレニズムの哲学的な営みを捉えるための新たな視座を構築するという将来の啓発的な研究への可能性を開くと期待される。さらに、上述2の研究動向と相俟って、b. アウグスティヌスの思想を北アフリカ教父思想の展開のうちに精確に位置づけるという将来の包括的な研究への可能性を開くと期待される。

本研究の研究代表者は2011年度からの科研費研究を通して、相互に異なる問題場面で一見分裂しているかに見える人間の「生き方」をキリスト教的な「心性」のもとに収斂しようとする教会共同体の指導者である司教の言説に着目した。また2014年度からの科研費研究ではこの「心性」を地域の実態と関連づけて分析し、異教社会に囲まれたキリスト教共同体の成員に対して「心性」を統括するように勧告する司教の多彩なメッセージを可視化した。さらに2017年以降の研究を通して分析の射程を教父テルトゥリアヌス、キプリアヌス、ヒエロニュムスへと延ばし、地域共同体の指導者でもあった彼らによる「書簡」と「説教」というツールの活用において、社会変動のなかで異教とキリスト教の緊張関係の改善を目指す所以を理解し、人間の「生き方」を理論と実践の統合のもとに捉えようとする態度を見出すにいたった。

研究代表者は上述のようにこれまでの科研費研究を通して、アウグスティヌスが古代末期の社会的、文化的、宗教的な課題に取り組むなかで、さまざまな実践的な選択を通じて「生き方」を涵養するという傾向を有することを確認した。この傾向について分析を進めて司教の活動の一源泉としての「精神の修練」を可視化し、この傾向が古代末期にいたる「自己への配慮」の系譜に位置づけられることを明らかにした。一方2016年と2019年の国際学会における研究発表後の意見交換を通して、アドによる「精神の修練」研究が近代的な「自己」概念を恣意的に持ち込んでいること、また哲学において理論と実践の統合を提唱するならば日々の実践や社会的な紐帯との密接なつながりを無視できないと着想し、その紐帯と相関し「生き方」を変える術としての「教導」の体系に着目するにいたった。