基盤研究C 2011–2013「研究概要」

アウグスティヌスにおける聖書解釈の理論と実践


基本データ

  • 研究代表者 上村直樹(東京学芸大学教育学部・研究員)
  • 研究分担者 佐藤真基子(慶應義塾大学文学部・非常勤講師)
  • 研究期間 2011年度–2013年度
  • 研究分野 思想史
  • 審査区分 一般
  • 研究種目 基盤研究 C
  • 研究機関 東京学芸大学
  • 課題番号  23520098

研究の目的

この研究は、古代末期において聖書がいかに解釈されていたかを問いなおすとともに、その解釈に密接につながる思想の在りかと展開を解明するという思想史的な視点から、聖書解釈を包括的に理解することを目的とする。この目的へむかって研究は、一方では、アウグスティヌスの成熟期にさきだつ時期の聖書解釈を考察してきた研究、他方では、これも彼の成熟期にさきだち形成されつつあった言語理論を考察してきた研究、これらの成果をふまえ、アウグスティヌスによる「創世記」解釈とパウロ書簡解釈について、その実態を短期間にしぼって検討することに集中する。2011年度から始まったこの研究は、二人の研究者による共同研究として遂行された。

アウグスティヌス初期の「創世記」解釈についての研究と、同時期のうちに言語理論の萌芽をさぐった研究とを出発点として、本研究では、『告白録』や同じころに書きはじめられた『キリスト教の教え』(397年執筆開始)にさきだつおよそ5年に期間をかぎり、アウグスティヌスによる聖書解釈の実態とそれにかかわる思想とを包括的に解明することにとりくむ。注意すべきは、短期間に書かれたテキストを対象にするのみとはいえ、それらを複眼的に分析し、その結果を総合して考えなければならないということである。問題は三項にまとめられる。

  1. 「創世記」とパウロ書簡はいかに解釈されていたか。
  2. 『嘘について』に前後する言語理論はいかに変化したか(変化しなかったか)。
  3. 人間論はいかに展開したか(展開しなかったか)。

研究代表者上村にとって第一の課題は、1 の問いに答えることである。初期の「創世記」註解についての研究をひきつぎ、『未完の創世記逐語註解』(393年執筆)に前後する時期の著作、説教、書簡から網羅的に「創世記」解釈を洗いだし、その解釈法の特徴もあわせて検討する。さらに、佐藤の助力をえて、『ガラテヤ書註解』『ロマ書選釈』『ロマ書未完註解』といったパウロ書簡註解の実態を解明する。これは、本研究の基盤をととのえるために必要不可欠な作業である。

研究分担者佐藤にとって第一の課題は、2 の問いに答えるとともに、その成果を上村の分析に適用することである。『嘘について』(395年執筆)に成熟期の言語理論の萌芽を見いだした研究をひきつぎ、この著作に前後する言語論の変化の可能性を検証する。この検証にあたっては、すでにその関連が指摘されているように (Cf. G. Ceresola. Fantasia e illusione in S. Agostino dai Soliloquia al De Mendacio. Genova 2001)、初期の『ソリロクィア』、『教師論』、また中期著作についてもテキストを分析することによって、初期言語理論の全体像を明らかにする。

両名はついで、分析したテキストのなかで、いかに人間論が展開しているかを考察する(上述 3)。これが第二の課題である。「創世記」註解をとおして、人間が神の似像にむけて造られたという創造理解による人間論が展開する一方、話し手の意図に注目して「偽」と「嘘」を区別する考え方をふまえ(『嘘について』)、「原罪」をもつ人間のあり方に焦点をあてる人間論が展開すると想定される。これらの想定を立証しなければならない。本研究のこの段階にいたって、アウグスティヌスが、「創世記」とパウロ書簡という成熟期の聖書解釈にとって重要な聖書テキストを、言語と人間に関する理解をともなって解釈していたという包括的な枠組みを提出することが可能になる。両名はさらに、あらたな知見のもとで上村が明らかにした聖書解釈の実態を検証しなおし、この研究の課題を達成することをめざす。

研究の背景

古代の教父がとりくんだ聖書解釈についての研究は、現在の活況を呈するこの領域からすれば奇妙なことに、前世紀第二次大戦後になってようやく学術研究として確立しはじめた。1950年代前半には、教父による聖書解釈について体系的な見取り図を作成することはほぼ不可能だと見なされていた。しかし、研究の急速な進展によって、また1960年代末期から研究領域として創出されはじめた「古代末期 (Late Antiquity)」の社会的、文化的、経済的環境についての研究の進展もあいまって (Cf. G. Bowersock, P. Brown & O. Grabar (eds). Late Antiquity: A Guide to the Postclassical World. Cambridge, MA 1999)、私たちは現在、7世紀ごろまでの古代教会のなかで、聖書本文がいかに成立し、伝承され、流布し、解釈されてきたかについて多くの知見を共有している (Cf. C. Kannengiesser et al. Handbook of Patristic Exegesis. 2 vols. Leiden 2004)。聖書学のいわゆる「ルネッサンス」をむかえた4世紀から5世紀に浩瀚な註解群をあらわしたアウグスティヌスについても、その聖書解釈の実態が明らかになるとともに、先行する東西教父の伝統からの影響、解釈法上の特徴、同時代の解釈理論との関係についての研究も推進されている。

この研究の研究代表者上村は、さきにアウグスティヌス初期の「創世記」解釈の実態を考察し、『マニ教徒に対する創世記註解』や『未完の創世記逐語註解』のうちに成熟期の聖書解釈にいたる萌芽が、その方法にも、またそれにかかわる人間理解においても認められることを明らかにした (“Augustine’s First Exegesis and the Divisions of Spiritual Life”, Augustinian Studies, 36 (2005) 421–432、また、“Augustine’s Scriptural Exegesis in De Genesi ad litteram liber unus inperfectus”, Studia Patristica, 49 (2010) 229–234)。一方、研究分担者佐藤は、聖書解釈の原理を論ずる主著『キリスト教の教え』の検討を皮切りに、その原理をささえる言語理論がいかに形成されてきたかを考察した。そして、その理論の萌芽が、先行する著作『嘘について』のうちに人間の「原罪」論とのかかわりにおいて認められること(「『心の口』で語るとはいかなることか─アウグスティヌス De mendacio における」『中世哲学研究』26 (2007) 62–73)、また、同時期の『ガラテヤ書註解』との心のあり方に関する用語上の一致を明らかにした。

欧米を中心に進展いちじるしいアウグスティヌス研究において近年注目されているのは、『告白』の成立(397-400年ごろ)にさきだつ5年ほどのあいだに、その思想がいかに変化し、また変化しなかったかというテーマである。研究が精緻なレベルにいたることで、この短期間のなかに成熟期のアウグスティヌスの思想のはじまりと失われた可能性をさぐる研究があらわれはじめた (Cf. P. Brown. “New Directions”, in: Augustine of Hippo. Berkeley 2000: 489-490)。とはいえ、聖書解釈という領域では、解釈法などについての東方教父からの影響、成熟期の膨大な註解相互のつながり、解釈理論へのドナティスト派ティコニウスの影響などを論ずる研究が中心であり、初期のこの時期をあつかう研究は限られている (e.g. E. Plumer (ed). Augustine’s Commentary on Galatians. Oxford 2003)。さらに、聖書解釈と初期の言語理論や人間論とを包括的にとらえる研究は緒についたばかりである。この研究はそうしたアウグスティヌス研究上の欠落をうめるために立案された。